陶酔と偏頭痛

ままならぬ断想記

権利と義務、それからフェミニズム

 

先日ぼくの友人がブログを更新した。それは東大入学式の上野千鶴子氏の祝辞について、「なんらかの粗探しをしてしまう」動機を分析して敷衍し、権利と責任の議論に持ち込む、そんな記事だった。

彼は理性的で論理を展開でき、かつ慎重な部分がある人なので、彼自身に対する分析として(それがどの感覚から来るものなのかという意味では)整然としてわかりやすい記事である。

 

しかし、だ。ぼくはどうにもこの意見は承服できない。彼に倣ってぼくも自分の「承服できない」を分析すると、これはどうも、権利と義務あるいは責任の連関に対する誤謬と、性差に対する認識の齟齬がもとになっているようだ。

 

ということで今回は、彼に対する応答も含めて、権利概念の検討とフェミニズムの話をしようと思う。お付き合いいただければ幸いだ。

 

権利と責任と義務

 

さて、権利について考えるとき、おおまかには、

「権利には義務や責任が伴う」とする考え方と、

「権利そのものを得るのに義務や責任は必要ない」とする考え方とに分かれる。

 

為政者は(おそらく)前者を好むだろうし、いわゆる“人権派”は後者の立場をとるだろう。ちなみにブログを更新した彼は、(権利の維持についてという条件で)前者を採用していた。

 

では、権利と義務と責任の連関は実際にどうなっているのだろうか?

このことを考えるために、W.N.ホーフェルドの権利概念モデルを参照しよう。*1

 

ホーフェルドの分析に従えば、

「AがBに対し「BがΦすること」への権利を有する」とは、「BがAに対し「BがΦすること」への義務を負う」ということである。具体的に考えてみよう。AがBに2000円を貸しており、「必ずなんとかのときまでにかえすから!」と約束されたとしよう。このとき、Aは「お金を返してもらう」権利、つまりBに対して「Bが2000円をAに返すこと」への権利を有する。逆にBは「お金を返す」義務、つまりはAに対して「Bが2000円をAに返すこと」への義務を負っているのだ。

 

ここから言えるのは、“義務”と“権利”は、同一の規範的関係を異なる視点から見たものである。*2*3この権利と義務の関係を、相関性テーゼという。

 

相関性テーゼは、契約関係などの私法的関係だけではなく、人権などの権利にも言える。これは例えば「生存権」について、ある人が「殺されない権利」を有するというとき、他の人は皆、「ある人を殺すことを差し控える義務」があるといえる。これは、「社会(国家)に存在する時点で生じる権利とその相関義務」と、「私法的権利関係による権利と相関義務」というふうに分類可能である。前者はその性質上、義務を負うのは万人(万人が各々権利を有してもいる)であり、「権利のための権利」も含意している。後者は、具体的に権利関係を結んだ特定の主体が権利を有し、義務を負う。

 

以上のことからいうと、権利と義務は相関しているのであって、対価なのではない。義務の対価に権利を受け取るようなトレードオフではないのだ。この点、義務は目的(なにがしかの権利があるということそれ自体)であって、手段(なにがしかの権利を得るために負う、果たすもの)ではない。

 

では責任とはなんだろうか。*4簡単に言えば、次のようになる。

ある人が自由意志に基づく行為を為したとき、行為と結果についてある人は責任を負うことになる。*5つまり一般にいう責任は、自由意志と行為に関連した概念だといえる。義務や権利と概念的関連があるわけではないのだ。

 

 

さて、権利と義務の相関性をこのように示した上で、戸主権についての誤謬を正し、権利概念の分析を終えよう。戸主権について、戸主が「負っていた」とされる責務は、

(i)社会的慣習や偏見に基づく社会的重圧

(ii)本来は夫婦が名宛人である義務が恣意的に偏重したもの*6

である。対して戸主の持つ権利は、[本来契約によって定められるところと、それ自体が家庭内の個人の権利を不当に侵害するところのもの]を、法により国家から強制されることによるもので、契約に関する「権利に対する権利」を侵害している。そしてこの状況において、(i)のために何らかの対価が支払われていた、とすることもできない。権利義務関係についての概念把握の混乱と、社会的偏見があっただけである。

 

以上が権利概念の分析である。権利と義務は相関してはいるが、トレードオフではなく、同一の規範的関係を異なる視点から見たものなのだ。では続いて、フェミニズムを分析してみよう。以下はほとんどが私見であるので、異論は広く受け入れる。

 

歪んだ適応と反動としてのフェミニズム 

 

社会生活において女性は、上記のような権利義務関係から、部分的に不当に除外されていた。具体的な例が選挙権と家父長制である。また、権利を認められていても、その行使が十分に出来ず、阻害されることがあった。現在主に見受けられるのはこの事態である。

 

こうした状況下では女性は、生活に際して適応を迫られる。後者の権利行使阻害の例では、既に権利は認められていて、ジェンダーに基づく偏見から生じる問題のため、立法や制度の要求がしにくい。そのため女性は「適応」を考える。玉の輿や専業主婦であるとか、こまごまとした雑務仕事をこなしてよしとする態度はこの例とも言える。

 

ここで問題であるのは何か。「権利行使が様々な要因で十分にできないこと」である。しかし、歪んだ「適応」の結果(ジェンダーを逆手に取った戦略など)は、受益的に見えることがある。*7適応してしまえば、それで満足することもできる。こうして、不正な状況で満足すら感じている女性がうまれるのである。

 

しかし、このような「適応」に不満を表す人々が当然でてくる(前段の権利行使不全の問題を把握しているかどうかは別である)。反動によるフェミニズムはここからおこる。フェミニズムが女性学であるのはこうした経緯からだ、とも言えよう。

 

フェミニズムにおいては、こうした反動から、権利を恣意的に拡大しすぎる可能性があることや、「ジェンダー」に対する態度によっても、多分に論争的であり、内部混乱を招いてもいる。また、反動としてのフェミニズムはその性格上、女性の不当な扱いを主に訴えるため、女性が主語になる。そして、効果的であったりある程度妥当であったりするが多分に誇張が含まれる言説や、フェミニズム内の理論的不統一のために、そして論争的性格のために、フェミニズム全体に不穏なイメージがついたり、「ツイフェミ」に代表されるような揶揄、理論的に稚拙な主張が起こるわけである。

 

 とりうるフェミニズムとは、あるべき視点とは

 

ではどうすればいいのだろうか。さらに私見を続けると、とりうるフェミニズムというのは、

(i)「個」に還元可能な社会関係や社会問題は「個」で考えて「個」に基づき制度設計すること

(ii)性差により必要となるとき、男女(あるいは他の性)にそれぞれ適正な保護・権利を保障すること

(iii)権利行使を十分にできるように、社会的偏見を問い直し、社会構造を組み換えていくこと

以上を満たすものと考える。このとき(ii)の部分以外は、「男女同権」を基盤に考えなければならず、ジェンダーによる「べき論」を構成するのは不当である。逆に(ii)については、特に妊娠や中絶における問題を考える視点であり、(i)に包摂できない問題を回収する視点でもある。妊娠や中絶については当然、男女双方の関係において把握しなくてはならず、「女性の問題」に押し込めてはならない。*8

加えて重要なのは、「ケイパビリティ」の概念である。*9これはある人が何かを行ったりなにかになるための実質的自由であり、選択可能な行為(状況)が十分にあることと、その中から自らの判断で特定の行為(状況)を選びとることができることを含意する。ケイパビリティを拡充させることは、不遇な立場の人にとって、隠蔽された行為や視点を顕在化させ、「歪んだ適応」により錯誤的に満足することを回避することができる。そして、適正な状態で自らの意思により生活することを志向している。このことが、抑圧下にある主体には重要と考える。

 

 

以上、権利概念とフェミニズムを分析し、権利概念の適正な把握とフェミニズムの構成を試みた。参考になれば幸いであり、忌憚なき批判や評価を期待するものである。

 

 

*1:ホーフェルド分析の教科書的理解について、Simmonds,2008を参照

*2:ホーフェルドは加えて、権利義務関係そのものの構築・解除・変更を指す「権能」や、権利義務関係が解除・変更不能な地位である「免除」が、“二階の関係”としてあると分析した。

*3:「義務」とその根拠たる相手方の特性の対を指して、安藤馨は「責務」といった。安藤馨,2010より

*4:ホーフェルドの分析用語には「責任」というのもあるが、それは一般に言われる責任とは意味内容がことなる。

*5:「自由な」意志が実際に存在するかどうかと、どこまでが「自由な」意志であるのかは明白ではない。いわゆる自己責任論は後者に対して瑕疵があることが多い。

*6:子供の扶養の義務はこの例である。本来は夫婦が扶養の義務を負っており、それを実質的に果たそうとするときにどちらが担うか、どちらも担うのかは個別家族の問題である

*7:現実に受益しているわけではあるが、それは不当に限定されてしまった環境で適応しただけである。

*8:『講座 人権論の再定位 人権論の再構築』第2章,山根,2010を参照

*9:ケイパビリティについては、アマルティア・センとマーサ・ヌスバウムの議論が参考になる。ケイパビリティを含む福利基準の検討に関して、神島,2015を参照。