陶酔と偏頭痛

ままならぬ断想記

表現と「必然性」

皆さんは絵を描いたことがあるだろうか。「あるにきまってるだろ、馬鹿にするな!」と言われそうだが、ないひとはほぼいないだろう。

じゃあ漫画は?と聞けば、あるという人は少なくなると思う。小説ならさらに減るはずだ。

これら表現物は、まぁ結局は相手に何かを伝えるものだ。文芸に限らなくても、レポートやら作文やら、なんならテストの答案だって立派な表現物になる。私はこの問題文を(たぶん)理解して考え、答えを導きましたよと、そう伝える。つまり表現物は情報伝達手段なのだ。

 

こんな当たり前のことから書き始めてしまいましたが、今回は表現物の「必然性」についての断想です。

 

表現手段の選び方

 

表現物には様々な種類(絵、文章、彫刻などなど)があるわけですが、伝えたい情報がある人は、この中から何を使うかを選ぶわけです。では、その基準はなんでしょうか。

まず思いつくのは本人の技術力です。写実的な絵を描くのが得意だとか、感情に訴えかけてくる文章が書けるとか、論理関係を明晰に示す文章を書けるなど、能力は様々ですが、不得意な分野で自分が伝えたいことを表すのは難しいでしょう。やはり勝手知ったる表現手段を選ぼうと、普通の人は思うはずです。

次に、伝えたい情報の種類があげられます。伝えたいことが、猫の見た目についてなのか、ある人の精神状態なのか、筋肉の潑剌さなのかによって、どの表現手段が適切かは変わってくるはずです。むろん1つに限定されるわけではありませんが、ここのところは技術力とも関わってきます。

さらに、「どのように情報を伝えたいか」も基準になります。できるかぎり簡便に済ませたいのか、繰り返し反芻させるほど印象的に伝えたいのかでは表現手段もその詳細も異なるものとなります。

 

「必然性」って?

 

ここで、表現手段の「必然性」という本題に入ります。ぼくは特に創作物を見るときに、「これをつくったひとはなにを伝えたいのか」と、「この表現手段は必然的なものだろうか」を考えます。前者は単純に、表現者の伝えたい情報を汲み取る作業ですから当然は当然です。ぼくが創作物で重要だと思っているのは後者の方です。

必然性とは、「そうなることが確実でそれ以外はない」ということですが、つまりは「この表現手段は伝えたい情報に合っているか」、言い換えれば表現手段の合目的性です。意味ずれてないか?と言われそうですが、「これ、この表現にする必要あったの?」というのが気になるということで、「それ以外」を排除してその表現手段になる理由という意味で「必然性」ということです。

 

これを判断する材料や基準は人によって違うはずです。しかしぼくは、これがあるかないかによって、創作物の出来そのものが大きく変わる、と思います。例を出してみましょう。

 

よく、「漫画でわかる〇〇」みたいな本を見かけます。いろいろなことを漫画でわからせようとしてくれる良心的な種類の本ですが、開けてみると、ざっくり拵えられたストーリーの中で説明的なセリフが大量に出てきて、「なんだこれは」となることが多々あります。こういう本はおそらく、「とっつきにくかったりわかりにくい学問やらジャンルを、ストーリーにのせて漫画にすることで、読みやすくすんなり入るようにする」という目的で「漫画」を選んでると思われます。必然性には十分かもしれません。しかし、圧倒的に技術力が足りていないのです。長すぎる説明セリフに興味を引かれないストーリー、なんともいえない画力…どう考えても漫画にすることありきです。やはり必然性が足りてないんです。そうなれば、そもそも漫画である意味がないんですから、漫画としての評価は下がるでしょう。

 

他にも、安直な表現内容に頼った小説やら漫画は量産されます。わかりやすくていいかもしれませんが、結局そうなると「なんで小説にしたんだ?」「なんで漫画にしたんだ?」となります。そうするだけの必然性を見いだせないのです。ぼくの想像力不足でしょうか。

 

こうした「必然性」は、表現物そのものの存在意義を問うことになります。メディアミックスなら逆に多角的に1つの世界観を描き出すという目的はありますが、それでも、それぞれの作品にそれぞれの「必然性」がなければ、やはり意義を失いうると思います。「必然性」を十分に説明できない作品は、その存在意義が不安定であることにより、主題や情報の伝達それ自体の質を下げてしまうのです。

 

「切実さ」と「必然性」

 

最後に、必然性のほかにもうひとつ、「切実さ」という判断基準を示します。やはりこれも主題や情報の伝達の質に関わります。端的に言えば、これは「情報を伝える真剣さ」です。これがない、読み取れないと、受け手は主題や情報を正面から受け止めようという態度を作れません。両者が真剣に向き合うからこそ伝達は成功するのであって、発信者がこれに欠けていれば、意味はやはりありません。



あらゆる文化的作品が大量生産、大量消費の波にのまれるなかで、そもそも文化的作品には、「必然性」と「切実さ」が大事だと、ぼくは思うのです。



とても長くなりました。ここまで読んでくれた人には粗品でも送りたいですが、あいにくそんな用意はないです。かわりに、なにがしかを得てもらえれば幸いです。